Mongol
2012年09月16日
2012年 夏 モンゴルの旅 ハルハ川(ノモンハン)事件について
ガイドブックを読んで
ノモンハン事件について
解説されていた。
あまり深く知らなかったので
備忘録として
書いておく。
ノモンハン事件
●事件の背景
1920年頃から、中国東北部(満州)に勢力を
拡大していた大日本帝国は、極東南下政策を
取るスターリン体制下のソ連と各地で小競り合い
を起こしていた。
帝政ロシアによる、シベリア鉄道の敷設に
見られるように、ロシアは一貫して中国東北部
や朝鮮半島に勢力を拡大させようとしていた。
これを阻んだのが大日本帝国で、その結果、
1904年に日露戦争が勃発し、からくも
日本軍は勝利を収めることになった。
●白兵戦重視の日本陸軍
その後も、日本陸軍は一貫してロシアを
仮想敵国と見なし、訓練、作戦研究を行っていたが、
その戦術は、歩兵の白兵戦によって敵を殲滅せんと
するものだった。
1930年代になると、帝政ロシアを継いだソ連が
革命の混乱からようやく立ち直り、軍事力を機械化、
重装備化によって増強しつつあった。
日露戦争においては、彼我の装備にさほど差がなく
日本軍の白兵戦術も功を奏し、また中国大陸における
中国軍との小競り合いにおいては、日本軍の圧倒的な
武力と中国政府軍の戦術後退という方針によって、
日本軍は破竹の進撃を続けていた。
このため、白兵戦による決定的勝利獲得という
戦術は何ら変更されず、日本陸軍の基本思想となって
いった。
一方、ソ連軍は機械化や重装備化を進めていたが、
スターリンによる反対派の粛清が激しくなり、
赤軍(ソ連軍)高級幹部も次々粛清され、
軍隊としての実力は低下していた。
●満州国の成立
こうしたなか、清朝最後の皇帝・溥儀を執政(後に
皇帝となる)にまつり上げ、日本の傀儡政権たる満州国を
中国東北部に作り上げた大日本帝国は、ソ連の実力を
試すためもあり、1935年頃から満州国とソ連との国境
付近で紛争を発生させた。
初期の紛争においては、日本軍の攻撃により、ソ連軍は
撤収したが、これが日本軍にソ連軍の実力を侮らせる
原因の一つになった。
その後、1938年の朝鮮(当時は日本の植民地であった)
とソ連との国境付近で起きた張鼓峰事件では、日本軍はソ連軍
の反撃によって1個連隊が壊滅する打撃を受けたにもかかわらず
敗北とは総括されなかった。
●ノモンハン事件の発生
こうしたなかで起きたのが、1939年5月の満州国とモンゴル
人民共和国の両国境守備隊の小競り合いであった。
満州国国境付近に大兵力をおいていた日本陸軍は
歩兵1個連隊と騎兵1個中隊を現地に派遣、ここに戦闘が
勃発した。
モンゴル・ソ連連合軍は頑強に抵抗し、日本軍は後退せざる
を得なかった。その後、関東軍参謀の作戦指揮によって、
モンゴルのタムスクへの空爆と第23師団および戦車隊を
投入した大規模な攻撃を開始した。
しかし、相変わらずの白兵戦重視で、投入した日本軍の
軽戦車はソ連軍の重火器によってブリキのおもちゃの
ように簡単に破壊された(この戦車の残骸は
スンベル村でかつて見ることができた)。
一方、ソ連側の戦車の装甲は厚く、日本軍の火器では
歯が立たなかったが、歩兵はソ連戦車の弱点で
あるガソリンエンジンを火炎ビンで攻撃し、
一時はソ連軍側をハルハ川を越えて退却させた。
●日本軍の壊滅
ソ連軍側は、後に元帥となるジェーコフ(ウランバートルに
記念碑がある)が指揮官となり、指揮系統を整え、戦車も
火災に強いディーゼルエンジンと交換させ、進撃してくる
日本軍に圧倒的な砲火で総反撃した。
この結果、日本軍23師団は壊滅、出動人員薬5万9000人
のうち戦死者7696人、戦傷者8647人、行方不明者1021人
(多くは捕虜になったため帰国しなかった)、戦病者2350人
という空前の被害を出し、敗北する。出動部隊の3分の1が
損害を受けた「事件」であった(モンゴルではハルハ川戦争
と呼んでいる)。
●第二次世界大戦の勃発と停戦協定
同年9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵入。
第二次世界大戦が勃発したこともあり、日本軍と
ソ連軍との間に9月15日に停戦協定が結ばれ、
一応の結末となった。
この結果、モンゴルの人々の間に、日本に対する
恐怖と憎しみ、ソ連に対する信頼と尊敬の念が生まれ、
その後のモンゴルの政治・外交に大きく
影響することとなった。
日本陸軍はこの敗戦をひた隠しにした。
そしてこの「事件」は、北方の仮想敵国ソ連との
戦争を避け、南方侵攻に目を転じさせる大きな
きっかけとなった。
●事件の総括はなされなかった
しかし、日本陸軍は精神主義をすてず、機械化の
遅れや重火器の不足などの反省はなされず、敗北
の責任を前線部隊指揮官になすり付け、生き残った
多くの第一線指揮官に自決を強要し、兵士の多くは
中国前線に送られた。
作戦を強行させた参謀はじめ司令部の責任は
問われず、こうした上層部の無責任さは、第二次世界
大戦の敗北にいたるまで続くことになる。
●この戦争のもたらしたもの
モンゴル側についていえば、ソ連に対する信頼が
深まり、日本に対する嫌悪感が定着するきっかけと
なった。
日本についていえば、日本陸軍は伝統的に、
北進論を唱えていたが、この事件の敗北により、
南進論に転じ、その後、対米戦争を主張することに
なり、真珠湾攻撃に繋がることになった。
「ノモンハン事件」歴史の1事実として
名前を暗記していたけれど、
第二次大戦やソ連、中国、モンゴルとの関連や
日本陸軍の体質についても分かったように
思う。
2012年08月17日
2012年 夏 モンゴルの旅4
サナバザル美術館
「『サナバザル』とは1635年にウブルハンガイ県の
貴族の家に生まれたモンゴル初の活仏で
その名を冠した美術館。サナバザルは15歳の時
チベットでダライ・ラマ5世に宣言され、
モンゴル人として初の活仏となり、
モンゴルのダ・ヴィンチと呼ばれ、優れた仏教美術を
数多く生み出した。」
サナバザル作やその弟子による観音像や19世紀初頭
の画家シャラブの作品などがある。
モンゴルのお祭りTsamについての展示もある。
Tsamで使われるお面、装束、お祭りのVTRなど
観た。美術館の人がいろいろ説明してくれて
おもしろかった。
チョイジンラマ寺院博物館
第8代活仏ボクドハーンの弟の寺として
建立された(1908年)もの。
年1回行われてきたチベット仏教の
Tsam祭典(仮面舞踏)が最後に行われた
寺院。
現在はTsamに使用されたお面や楽器が
陳列されている。
Tsamは1993年に復活した。
ウランバートルの象徴のお面。

ツァムで使われる迫力のあるお面や
寺院の内装、とても興味深いものがある。
極楽浄土や地獄を再現したような雰囲気
の場所もあり、面白い。
どこの美術館や博物館でも
カメラ撮影には5ドルから10ドルくらい
払わないといけない。
モンゴルは伝統的な暮らしから
急速に変化しつつある。
携帯電話の普及、馬にかわってオートバイや
トラックなどの使用も地方でも進んでいる。
水道はなくてもテレビはあったりする。
ゲルの外にパラボラアンテナがたっていたり・・・
遊牧生活をやめ、現金収入をもとめて
首都や県、郡の中心に移り住む人が増えている。
ウランバートルでも中心部から少し離れると
そうした人たちの住む地区がある。
水道も引かれていないので、
給水所にポリ容器をもって水を汲みにきている
姿をみかけた。

ウランバートル市のセントラルタワーには
ブランドのお店や高級レストラン(和食、韓国
料理、バーなど)。
2012年 夏 モンゴルの旅3
テレルジからウランバートルへ。
午後3時頃到着。
首都にくると、
レストラン、お店などあり、
地方とは別世界だと思った。
お昼はテレルジで
肉うどんを再度食べる
ことになっていたけれど
やはり羊の肉は
苦手なので断って何も食べなかった。
ウランバートルに帰ってきて
気になっていた
ウズベキスタン料理の
レストランに入る。

内装素敵。
ピラフ、サラダ(馬肉、サワークリーム、玉ねぎ
ピクルスなどが入っている)。
それからモンゴルのビール。
モンゴルのレストランは、
日本に比べれば
「!?」と思う所もある。
けれど、地方から帰ってくると
首都はまさにオアシスのように感じた。
この後、町中を散策。
ソウルストリート周辺。
ミニスーパーなどがあるけれど
ほとんど輸入品。
国内に産業があまりないんだと思った。
レストランや個人商店などはある。
物価もそんなに安いと思えない。
モンゴル4日目。
ウランバートル市内近郊散策。
ホテルでタクシーを呼んでもらう。
1キロ700Tg。
2か所行きたいところがあった
(ダンバダルジャー僧院とザイサン・トルゴイ)。
徒歩で行くには遠いので
タクシーで。
ダンバダルジャー僧院(ウランバートルより15キロ)


『第2代ボグド・ジャンブザンダムバ活仏を偲び、
1761年~1765年に建立された僧院。
往時は25の僧坊などが建ち並び、1500人の
僧が居住していた。
1930年まで僧が居住していたが、
革命により僧院は廃止され、多くの僧は殺された。
現在、境内には修復された寺院、仏塔、ふたつの
鐘楼や碑楼などが残されている。
チベット風僧院は、
第二次大戦後、日本人抑留者の病院として
使われていたが、現在は廃墟。
当時この地で亡くなった日本人抑留者の
墓地がこの僧院の裏手にある。
同じ僧院はボランティア活動にも熱心で
貧困者に衣類や学用品などを配布している。』
ザイサン・トルゴイ(UB中心部より3キロ)
ふもとのブッダパークにまず寄る。
台座は博物館になっている。
すぐ横でビルの建設など。
ウランバートル市内、いたるところで
工事中。
サイザン・トルゴイを目指して
階段を登る。
トルガ。
幅3メートル、周囲60メートルの鉄筋コンクリートの
輪。
輪の外側にはモンゴル民族文様を背景に
ソ連とモンゴルの勲章とメダルが浮き彫りに
されて、内側はモンゴルとソ連両人民の
友好、相互援助をイメージしたモザイクに
なっている。
モザイクには、大日本帝国とナチスドイツ
の旗を踏折っている場面もある。
ウランバートルの町が一望できる。
侵略に対する社会主義への賞賛が
語られているけれど、
社会主義体制の下では、
モンゴルでは、寺院の財産没収、僧侶の
処刑、多くの政治家の粛清などがあった。
ウランバートルには、政治粛清記念博物館が
ある。
ソ連崩壊後の1992年、モンゴルは民主国家として
新たなスタートを切った。
2012年 夏 モンゴルの旅2
2日目の市街散策時、
ウランバートルのPeace Av.を歩いていると
ゲストハウス兼旅行のアレンジをしてくれる
場所を見つける。ガイドブックにものっている。
テレルジはウランバートル東北東50キロにある
(車では70キロ程)の地点にある保養地。

しかし、この日は雨・・・。
テレルジヘ向かう。9:30発。
1人1泊2日 3食 乗馬1時間で130ドル。
人数が増えると、1人当たりの料金は
安くなる。当日、自分以外にシンガポールの
人が一緒に参加。料金は80ドルだった。
道路は、まともな所と穴だらけの所といろいろ
あってすごい。
2時間のドライブ中に2件自動車事故をみた。
1つは追突、もう一つは3台を巻き込んでの
衝突事故。
この連れて行ってくれた運転手さんも
ご多分にもれず、前に車があると、
ライトでカチカチ合図をして、対向車が
向こうからくるのに
すごい勢いで抜かそうと
なんどもするので、本当に
その対向車と衝突するのでは、と思う
くらい怖い時もある。
路面もぬれたり穴ぼこ
だらけなので、本当にひやひやもの。

市街地を離れると草原が広がる。
木の板で作った垣根やゲルがある。
テレルジ広い範囲にわたってキャンプ
(ゲルでの)がある。
私は亀石の近くのゲルに1泊することに。

ホストファミリーのゲルで少し待つ。
それからゲスト用のゲルに通された。

宿泊したゲル。

ゲルの中。

ストーブ。夏でも雨が降ると冷える。

近所にもゲルがある。
岩肌のでた山に囲まれていて
絶景。
ゲルにはトイレやシャワーはない。
宿泊したところは水道もなかった。
ホストの家の外に水甕があり、
雨水をためていた。
他のゲルの人たちはそこで
皿を洗ったりしていた。
本格的にキャンプをしていた。
自分はそんなに用意をしてこなかった。
食事もついているからいいかな、と。
3食付きだったけれど、
苦手な羊肉の入ったメニュー
だったので、つらかった。

ゴルリタイ シュル(羊肉の入ったうどん)。
ポットに入ったお湯と紅茶のパックも
もらった。
でも、このお湯が悪かったのか、
食事後、2時間か3時間して
猛烈にお腹の調子が悪くなった・・・・
水道がないので、しっかり煮沸しないと
いけないけれど、多分沸点に達しない
時点でポットにお湯をいれて
もってきてくれたのでは、と思った。

その日の夜もずっと調子が悪い。
夜中何度も起きて
外のトイレへ。懐中電灯持ってきてよかった。
ポットのお湯以外
お腹の調子の悪くなる原因が
ない。
自分で持ってきた水だけ飲むようにした。
素敵なところだったけれど、
お腹の調子が悪く
楽しさが半減した。水、本当に気をつけたい。
本当にげっそりした。

テレルジのシンボル亀石と馬。
馬や牛を放牧している。
乗馬もできる。
1日明けて翌朝。

パンとジャムとお湯、紅茶のパック。
ポットのお湯はパスした。
そうしたらお腹の調子は徐々によくなった。
日本だと水道、蛇口をひねれば飲める水が
出てくるけれど、ここは違う。
ウランバートルでもペットボトルで水売っている
けれど、キャップをチェックしないと、
綺麗な水でない場合もあるとか。
お昼に迎えの車が来た。
ウランバートルからは、違う旅行者が、このゲルに
宿泊するためにきた。
1人は日本人、2人は中国上海の人たちだった。
上海の人たちは、フランス、ポーランドなど回り、シベリア鉄道で
4日間かけてモンゴルにきたと言っていた(!)。
帰路ではチンギスハーンパークに寄った。
銀に光る像。馬の足元は博物館になっている。
7000Tg(1500Tgで100円くらい)。400円くらいかな。

草原に突然現れるので、ちょっと違和感がある。
けどモンゴルは首都以外は本当に人口密度が
低い。1平方キロ当り1.7人。
国土は日本の4倍。

ウランバートルに戻る道すがら、ラクダがいた。
飼い主がいてお金を払えば乗せてくれる。
他、鷹匠のような人も別の場所でみかけた。
ゲルでの宿泊も、本当にキャンプのように
準備をするのか、ホテル感覚で泊まれる
場所を探すかよく考えていった方がいいように
思った。
宿泊した近辺にはお店も何もなかった。
私は食べ物まったく口に合わなかったし、
水にも困ったので、自炊する用意などしていけば
よかった・・・
ホストの人たちは、
食事をもってきてくれたり、
ストーブをつけてくれたり、
色々声をかけてくれて
やさしかった。
2012 夏 モンゴルの旅1
日程が短いので、首都とその近郊を訪問。
1日目 日本-ソウル-ウランバートル(深夜着)
2日目 ウランバートル散策
3日目 テレルジ
4日目 テレルジ-ウランバートル
5日目 ウランバートル散策-帰路へ
6日目 ソウル経由-日本
フライト時間は日本 -ソウル 2時間
ソウル-ウランバートル 3時間半から4時間くらい
初めてのモンゴル、深夜着だったので、前もってホテルに
ピックアップをお願いした。
深夜1時30分頃到着。
ホテルの人はすぐに見つかり、町へ。
道路ががたがたで、やはりどんな場所か
少し不安になった。
ホテルは、ウランバートルの中心Peace Av.に近いところ。
結構便利だった。
2日目 ウランバートル散策

スフバートル広場
モンゴルの夏は短い。
冬は極寒の地になるので
夏に観光客の90%が集中するとのこと。
冬でも、寒さ対策をしっかりしておけば
それなりに旅行できるとガイドブックには
書いてあった。
ウランバートルは標高1300mにある。
空はとても青く、日差しはきつい。
帽子、サングラスは必要。
モンゴルの人たちも結構サングラス
していた。

チンギス ハーン像

アップ。

高層の建物の向こうに木の生えていない
山がみえる。
Peace Av.を進みカンダン寺へ。
モンゴルではチベット仏教が信仰されて
いる。

入口。極彩色がいい。
お坊さん(ラマ)チベット仏教の袈裟を着ている。


マニ車。

進んでいくと・・・

鳩だらけ。子どもや女の人、おばあさんが
えさ(多分麦?)を売っていた。

鳩のえさを売っていた子たち。
地元の人たちは、結構えさを
買ってあげていた。

お堂の中では、ラマ(お坊さん)たちが
勤行を行っていた。お経は日本とは
違って、縦12センチ横30センチ位の
紙に書かれているものが札束のように
10センチくらい積み上げられていて
1枚1枚読んでは横に置きを繰り返して
いたように思う。

参詣に来ている人たち。

マニ車。

ラマの勤行の様子。
最近仏道に入る人がモンゴルで増えていると
ガイドブックにかいてあった。

観音堂。
カンダン寺は1838年、第5代活仏ボグドハーン
によって建立されたチベット仏教寺院。
初代観音像はスターリンによって1938年
に破壊され、ソ連に持ち去られた。
今の観音像は2代目。

ひゃ~大きくて豪華。
両脇に本像より小さい観音様が。
チベット仏教には活仏がいる。
今の活仏はダライラマ。
モンゴルの代表的な活仏は
ジェップッツンダンバ・ホクトク。
別名ボグドハーン。
チベット、モンゴルにおける宗教、政治の
最高権威者だった。