Poland

2007年10月07日

2002年11月のことを思い出す

2002年11月
ポーランドのクラクフを訪れる。
クラクフには街自体世界遺産で、
近くにもヴィエリチカ岩塩坑、アウシュビッツ収容所、
などの世界遺産がある。

アウシュビッツへはクラクフから
列車を乗り継いでいった。
まだ冬もはじまったばかりなのに、
内陸部のためが寒さが厳しい。
太陽もほとんどでず、毎日どんよりした日が多かった。



この旅を思い出したのは、昨日NHKで
10月下旬から11月上旬にBSで放送される
「世界の子どもたち」という番組の紹介で、
ポーランドで家族を支えるために懸命に働く子が
裕福な夫婦に招待されて始めての休日を経験する。
海にいったり、スポーツをしたり…という内容だった。
休日の終わる日、その子のさみしい目をみると
現実の世界にひきもどされるせつなさが感じられた。




at 10:59|Permalink

2005年12月05日

ポーランドという国4::十九世紀

ポーランドという国4::十九世紀

十九世紀に入って、ポーランド軍は、ナポレオンに与して戦い、
ワルシャワ公国をつくる。ナポレオンの敗北により、ウィーン会議
(1814-15年)で再分割され、主に、クラクフ共和国と
ロシア皇帝支配下のポーランド王国となった。

人々はロシア皇帝の圧制に対し、自由と独立を求め、
蜂起につぐ蜂起を行った。
1830年、ワルシャワでの「十一月蜂起」が社会革命までに
到らずに終わったとき、多くの人がシベリアに流刑になり、
また「大亡命」と言われる8千人から1万人の亡命者が出た。

作曲家ショパンは、この「十一月蜂起」の敗北を異郷で知り、
このとき、練習曲ハ短調「革命」が生まれたと言われている。

帝政ロシアはこの蜂起の後、ヴィスワ川に沿った丘の上に
ツィタデラ(要塞)を建てた。
そこには550門の大砲が市内に向けて据えられ、
また要塞の中には政治犯用の獄房があり、
「処刑の門」と呼ばれるところには、たくさんの十字架も
見られる。

愛国者たちは、再度大蜂起を呼びかけた。
1863年の「一月蜂起」。
ロシアの革命運動家も加わり、一年あまりもつづいたが、
今回も敗北に終わり、多くの処刑者・流刑者を出した。
これ以降ポーランドは単にヴィスワ地方と呼ばれるようになった。
ロシアの厳しい同化政策はポーランド語を学校から排除した(1866年)。


at 21:24|Permalink

ポーランドという国1

ポーランドは、ヨーロッパの東部にあって、ロシアと接している。
バルト海に接する海岸製以外は周囲を隣国に囲まれている。

カルバチア山脈一帯に住むスラヴ族のひとつ、ポラニェ族の王
ミエシュコ一世は、十世紀にカトリックを国教に決めた。
彼の子どもがポーランド王を称し(1025年)、国力は強くなったが、
その後打ち続く王家の内紛やモンゴル族の侵入により、十三世紀に
入ると国土は一時荒廃。

しかし、その頃、ドイツ人たちとやってきたユダヤ人は保護され、
1264年には、ボレスラフ5世によって、ユダヤ人を保護し自由を認める
憲章がだされている。

十四世紀に入り、国はふたたび統一され、内外ともに安定。
首都はクラクフにおかれ、ユダヤ人は迫害をうけることなく
この地に住み着いた。文化は栄え、世界でももっとも古い
大学の一つであるヤゲェウォ大学(クラクフ大学)も創設され
ここではコペルニクスも学んだ。

教育は浸透し、十六世紀にはウクライナから黒海までを
版図とする大国を形成するまでになった。
それは現在のポーランドの五倍の面積をようするほど。

当時のゴシック、ルネッサンス文化の輝きは現在、
クラクフにあるヴェルヴェル城の王宮にその姿を
残している。

つづく

at 21:11|Permalink

ポーランドという国2::ユダヤ人の歴史

ユダヤ人の歴史

旧約聖書の時代、パレスチナの地に、ヘブライ人、ユダヤ人と
呼ばれる人びとがいました。彼らは唯一神ヤーヴェを信仰し、
神に選ばれた民なのだという強い選民意識のもとで
厳しい戒律に則した生活をして、排他的な面もあった。
エルサレムのあたりに定住した彼らは、ダビデ王・ソロモン王
のころに大変栄えたが、その後、エルサレムを追われて
放浪することになる。

紀元一世紀ごろのこと。

イタリア、北アフリカ、スペイン、オランダ、ドイツ、ギリシャ、トルコ
イギリス・・・彼らは世界中へ散らばった。
また、クリミア辺りに住み、モンゴル族などど
混血したハザール人もユダヤ教を信じていた。
彼らは、十一世紀ごろまで存在し、その後、東ヨーロッパに
移り住んでいったと考古学的に推察されている。

キリスト教がローマ帝国の国教となると、ユダヤ人への憎悪は
激しくなった。
ヨーロッパに流れていったユダヤ人の共同体は、十字軍のころには
キリスト教徒に襲われることも多く、さらに十四世紀半ば、
ヨーロッパじゅうを震撼させたペストの大流行は、
「ユダヤ人が原因」という噂を呼び、彼らの多くは家を棄て
東へ東へと逃げざるを得なかった。
彼らは、商人や高利貸としてさげすまれ、金持ちになれば今度は
妬みと憎しみの対象になった。
キリスト教が勝利を占めたヨーロッパでは、中世からユダヤ人だけを
隔離して居住させるゲットーが作られたり、
ユダヤ人を明示する布を着けさせられたりするなど、
ユダヤ人はいろいろな差別をうけた。

東ヨーロッパに向かったユダヤ人は、ドイツ語や各地の方言、
ヘブライ語の混ざったイディッシュ語を話すようになった。
彼らは、農業に従事したり、商業者としてポーランド社会に
喜んで受け入れられ、シュテトルという共同体を作り、
ユダヤ教の教会シナゴーグでラビ(宗教的指導者)を
中心に、神に祈る生活を送った。
ポーランド王国は、広い地域にまたがり、住民もポーランド人、
ウクライナ人、白ロシア人、リトアニア人と多くの民族が
混在していた。ユダヤ人も迫害されることが少なく、
ポーランドは世界でもユダヤ人の人口がいちばん多い
地域になった。
十八世紀の末には、ポーランドの人口九百万余の十パーセントが
ユダヤ人だった。
ユダヤ人社会は孤立していても、彼らの運命はポーランドの歴史と
ともにあった。

at 21:10|Permalink

ポーランドという国3::ポーランド王国の消滅

ポーランドという国3::ポーランド王国の消滅

十七世紀後半、貴族たちの対立からポーランドの国力の
衰退が見え始めると、周囲のロシア、プロシア、オーストリア
スウェーデン、トルコの干渉、侵略が始まった。
そして、十八世紀の1772年、93年、95年と三回に
わたって国は分割され、ポーランド王国はついに消滅する。

1772年第一次分割が、ロシア、プロシア、オーストリアの三国に
よって行われ、1793年プロシア、ロシアによる第二次分割で
ポーランドは国家存亡の危機にたたされた。
その一年後初めて全国的な蜂起が起こった。

指導者、コシチュシュコは民主主義を標榜し、アメリカの
独立戦争にも参加。パリ名誉市民にもなった人。
しかし、期待されたフランスからの援助はなく、蜂起は鎮圧された。

そして1795年、ロシア、プロシア、オーストリア三国の第三次
分割によりポーランドがついに滅びたとき、軍人、政治家の多くが亡命。
その中で、ドンブロフスキは1797年にイタリアのロンバルディアで
ポーランド軍を組織し、フランス軍に合流した。
祖国の再起をめざす軍団の「ドンブロフスキのマズルカ」は
現在のポーランド国歌「ポーランドいまだ滅びず」となっている。
その後、123年間、祖国回復のため、ポーランド人の苦しい
抵抗運動が繰り返された。


at 21:09|Permalink