2011年11月23日
読書録 「悪夢のサイクル」 内橋克人を読む2
読書後の備忘録です。
印象に残ったところを抜粋。
ネオリベラリズム。アメリカのシカゴ学派。
ミルトン フリードマン。思想の生まれた背景
などを著書で紹介している。
「アメリカ
1920年代 古典派自由主義経済学的な政策
建国後、各州が税収確保のために
企業の獲得をしていた時期があった。
州の経済活性化のため規制緩和をして
企業を誘致、どんどん競争させるべきと
企業行動を自由化。その結果、ほとんど
ルールなき資本主義が20世紀の始めに
生まれた。
投機ブーム。株価や地価が高騰。
行き過ぎたバブル経済の反動で
1929年に大恐慌が発生。
大恐慌という『市場の失敗』がアメリカ政府や経済学者
に与えた衝撃は大きかった。それを機に経済の節度
ということが説かれ始める。」
「マネタリー・ディシプリン、金融はこうあるべきだという
ことを自主的にきめて、銀行と証券とを分けた
グラス・スティーガル法や、集中を排除する独占禁止法の
強化など、いろいろ厳しい法律ができていった。」
「こうした歴史を背景にして、ジョン・メイナード・ケインズが
唱えたような、市場に政府が積極的に介入してゆく、
公共政策が採用されるようになった。」
「資本家や大企業が市場をほしいままに利用することを
政府が規制し、不況に対しては政府が財政投資と
公共事業によって雇用を確保することでその悪影響を
緩和し、累進課税を強化し、社会福祉を充実することで
富者から貧者への富の再分配を行うといったもの。」
「第二次世界大戦の勃発とともに統制経済を経験。
大戦に勝利したことでアメリカは超大国の地位を確保。
1950年代から60年代初頭にかけて経済的繁栄を謳歌した。」
「大戦直後からこの時期にかけては、アメリカでもまた
他の資本主義諸国でも、経済学の主流は
市場中心主義を維持しつつ適切な介入政策によって
その振幅をコントロールしてゆくというケインズ学派が
占めていた。」
「ところがアメリカでは60年代の後半から70年代初めに
ベトナム戦争に失敗し、戦費の負担から財政が悪化、
インフレ率・失業率が上がっていくという事態がおきる。
70年代以降、ケインジアンが主張していた、公共政策に
よって失業率が下がり、民間経済もうまくいくという
メカニズムが機能しなくなってきた。」
「その頃に目立っていたのは市場の失敗ではなくて、
政府の失敗だった。
公共政策が長年続くうちに政府の公共部門が肥大化し
重税と大きな政府につながってゆく。失敗が露になって
企業家はもとより、一般市民からも反発が高まっていた
時期にフリードマンが出てくる。」
「特にケインジアンが困ったのは、失業率とインフレの関係。
・・・失業率を低下させようとすればインフレーションが発生。
インフレーションを抑制しようとすれば失業率が高くなる、と
考えた。しかし70年代には必ずしもそうはいえなくなってきた。
インフレ、失業率ともに上昇傾向にあった。インフレ率を
下げるために公定歩合をあげれば、失業率はもっと高く
なると考えた。」
「フリードマンはインフレを退治するためには、貨幣の
供給量を減らすしかないと考えた。貨幣の供給量
によってのみ経済はコントロールできる、公共事業や
福祉事業による需要創出効果は無駄である、という
この考え方をマネタリズムと呼ぶ。」
「マネタリスト的なアプローチで貨幣供給量を減らし
利子率の急上昇を許し、失業率を高めてでも
インフレをおさえこもとした。この実験は劇的な
効果を発揮したようにみえた。」
「政府中枢のエコノミストの椅子から、ケインジアンたちは去ることに
なり、かわりにマネタリストたち、すなわち事情原理主義者が
その椅子に座ることになった。」
「福祉国家志向型のケインジアン的な公共政策が
現実の中でうまく働かず、信頼を失っていく。
それにとって変わるようにフリードマンなどが出てきた。」
「フリードマンは極端な自由主義者。」
教育に対するフリードマンの考え方
「上流階級の子どもは教育が選べる。ところが
大方の子どもはそうではない。彼らには私立学校に
いく経済的な余裕、よい公立学校があるからといって
その地域へ移住する経済的な能力がない。普通の
子どもや親が学校の教育内容に影響力をもち、自分の
要望を実現するためには、学校教育という独占を
打ち破り、競争を導入して学生や親に選ぶ権利を
あたえるしかない。つまり選択の自由が与えられなければ
ならない・・・」
「という趣旨のもとに、州や地方自治体が公立学校に出して
いる助成金を全部集め、すべての子どもに平等に
クーポンという形で再分配することを提案した。」
「国の力によって『機会』を平等にした上で、努力するか
しないかは本人の意思に任せ、努力しない人間は
貧困のままであきらめるしかない。そうした結果について
国が助ける必要などない、というのがフリードマンの考え。」
「フリードマンやその流れを引く過激な新自由主義学派の
人とたちは、政府による公衆衛生政策さえも必要ないと
主張している。」
「電力などの社会資本についても、当然のように自由化、
民営化を主張。」
「アメリカは80年代に電力を自由化し、電力を売り買いする
市場ができる。そしてその市場をコントロールするために
結局は粉飾決算によって2001年に訴追されることになる
縁論という会社がうまれることになる。」
「1984年 フリードマンの理論を採用したレーガン政権は
対日要求の一環として、日本の為替取引における
『実需原則』を廃止させている。」
「実需原則は、為替を投機の対象とすることを防ぐために、
為替の先物取引の際、輸出や輸入など実需の裏付けが
なければみとめないとする規定。」
「アジアの通貨危機直後の1997年、香港で催されたIMF
総会の席上でマレーシアのマハティール首相が、
『実需を伴なわない為替取引は禁止すべきである』と
訴えましたが、日本を始めアジア諸国がアメリカからの
圧力により、実需規制を撤廃し、投機的な通貨の
先物取引を解禁したことが、後の1985年からの急激な
円高や、1996年~97年の世界的な通貨危機の遠因と
なった。」
印象に残ったところを抜粋。
ネオリベラリズム。アメリカのシカゴ学派。
ミルトン フリードマン。思想の生まれた背景
などを著書で紹介している。
「アメリカ
1920年代 古典派自由主義経済学的な政策
建国後、各州が税収確保のために
企業の獲得をしていた時期があった。
州の経済活性化のため規制緩和をして
企業を誘致、どんどん競争させるべきと
企業行動を自由化。その結果、ほとんど
ルールなき資本主義が20世紀の始めに
生まれた。
投機ブーム。株価や地価が高騰。
行き過ぎたバブル経済の反動で
1929年に大恐慌が発生。
大恐慌という『市場の失敗』がアメリカ政府や経済学者
に与えた衝撃は大きかった。それを機に経済の節度
ということが説かれ始める。」
「マネタリー・ディシプリン、金融はこうあるべきだという
ことを自主的にきめて、銀行と証券とを分けた
グラス・スティーガル法や、集中を排除する独占禁止法の
強化など、いろいろ厳しい法律ができていった。」
「こうした歴史を背景にして、ジョン・メイナード・ケインズが
唱えたような、市場に政府が積極的に介入してゆく、
公共政策が採用されるようになった。」
「資本家や大企業が市場をほしいままに利用することを
政府が規制し、不況に対しては政府が財政投資と
公共事業によって雇用を確保することでその悪影響を
緩和し、累進課税を強化し、社会福祉を充実することで
富者から貧者への富の再分配を行うといったもの。」
「第二次世界大戦の勃発とともに統制経済を経験。
大戦に勝利したことでアメリカは超大国の地位を確保。
1950年代から60年代初頭にかけて経済的繁栄を謳歌した。」
「大戦直後からこの時期にかけては、アメリカでもまた
他の資本主義諸国でも、経済学の主流は
市場中心主義を維持しつつ適切な介入政策によって
その振幅をコントロールしてゆくというケインズ学派が
占めていた。」
「ところがアメリカでは60年代の後半から70年代初めに
ベトナム戦争に失敗し、戦費の負担から財政が悪化、
インフレ率・失業率が上がっていくという事態がおきる。
70年代以降、ケインジアンが主張していた、公共政策に
よって失業率が下がり、民間経済もうまくいくという
メカニズムが機能しなくなってきた。」
「その頃に目立っていたのは市場の失敗ではなくて、
政府の失敗だった。
公共政策が長年続くうちに政府の公共部門が肥大化し
重税と大きな政府につながってゆく。失敗が露になって
企業家はもとより、一般市民からも反発が高まっていた
時期にフリードマンが出てくる。」
「特にケインジアンが困ったのは、失業率とインフレの関係。
・・・失業率を低下させようとすればインフレーションが発生。
インフレーションを抑制しようとすれば失業率が高くなる、と
考えた。しかし70年代には必ずしもそうはいえなくなってきた。
インフレ、失業率ともに上昇傾向にあった。インフレ率を
下げるために公定歩合をあげれば、失業率はもっと高く
なると考えた。」
「フリードマンはインフレを退治するためには、貨幣の
供給量を減らすしかないと考えた。貨幣の供給量
によってのみ経済はコントロールできる、公共事業や
福祉事業による需要創出効果は無駄である、という
この考え方をマネタリズムと呼ぶ。」
「マネタリスト的なアプローチで貨幣供給量を減らし
利子率の急上昇を許し、失業率を高めてでも
インフレをおさえこもとした。この実験は劇的な
効果を発揮したようにみえた。」
「政府中枢のエコノミストの椅子から、ケインジアンたちは去ることに
なり、かわりにマネタリストたち、すなわち事情原理主義者が
その椅子に座ることになった。」
「福祉国家志向型のケインジアン的な公共政策が
現実の中でうまく働かず、信頼を失っていく。
それにとって変わるようにフリードマンなどが出てきた。」
「フリードマンは極端な自由主義者。」
教育に対するフリードマンの考え方
「上流階級の子どもは教育が選べる。ところが
大方の子どもはそうではない。彼らには私立学校に
いく経済的な余裕、よい公立学校があるからといって
その地域へ移住する経済的な能力がない。普通の
子どもや親が学校の教育内容に影響力をもち、自分の
要望を実現するためには、学校教育という独占を
打ち破り、競争を導入して学生や親に選ぶ権利を
あたえるしかない。つまり選択の自由が与えられなければ
ならない・・・」
「という趣旨のもとに、州や地方自治体が公立学校に出して
いる助成金を全部集め、すべての子どもに平等に
クーポンという形で再分配することを提案した。」
「国の力によって『機会』を平等にした上で、努力するか
しないかは本人の意思に任せ、努力しない人間は
貧困のままであきらめるしかない。そうした結果について
国が助ける必要などない、というのがフリードマンの考え。」
「フリードマンやその流れを引く過激な新自由主義学派の
人とたちは、政府による公衆衛生政策さえも必要ないと
主張している。」
「電力などの社会資本についても、当然のように自由化、
民営化を主張。」
「アメリカは80年代に電力を自由化し、電力を売り買いする
市場ができる。そしてその市場をコントロールするために
結局は粉飾決算によって2001年に訴追されることになる
縁論という会社がうまれることになる。」
「1984年 フリードマンの理論を採用したレーガン政権は
対日要求の一環として、日本の為替取引における
『実需原則』を廃止させている。」
「実需原則は、為替を投機の対象とすることを防ぐために、
為替の先物取引の際、輸出や輸入など実需の裏付けが
なければみとめないとする規定。」
「アジアの通貨危機直後の1997年、香港で催されたIMF
総会の席上でマレーシアのマハティール首相が、
『実需を伴なわない為替取引は禁止すべきである』と
訴えましたが、日本を始めアジア諸国がアメリカからの
圧力により、実需規制を撤廃し、投機的な通貨の
先物取引を解禁したことが、後の1985年からの急激な
円高や、1996年~97年の世界的な通貨危機の遠因と
なった。」