2013年03月

2013年03月31日

2013 春 名古屋 文化のみち散策5 名古屋城

名古屋城へ。

桜の季節。城内、桜が花をつけていた。

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入場料500円。
中学生以下は無料。

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入ってすぐに桜マップを発見。

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カンヒザクラ、シダレザクラ、オオカンザクラ、ソメイヨシノ
エドヒガン、オオシマザクラ、八重、ヤマザクラ、ギョイコウ

桜にもいろいろあるんだな・・・
「満開」「五分咲き」「三分咲き」「咲きはじめ」「つぼみ」
などの表示がされていた。

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東門から眺める名古屋城。

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カンヒザクラ。満開で美しい。

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加藤清正公。「清正公石曳きの像」。

石垣のうち、高度な技術を要した
天守石垣は加藤清正が築いた。

加藤清正は、尾張生まれ。秀吉に仕え、
朝鮮出兵にも参加。
関ヶ原の戦いでは
九州にとどまり家康らの東軍に協力。

肥後国(熊本)の初代藩主。
名古屋城の築城にも協力。
築城の名手として知られ、熊本城、名護屋城
江戸城、名古屋城など数々の城の築城に
携わった。
藩主として、治水事業や農業行政でも実績をあげた。

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お堀。

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天守閣へ向かう。

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石垣の道を行く。

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名古屋城!

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城内へ。

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金鯱。英語でGolden Dolphine.


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日本の名城パネル展。
「城は敵の攻撃を防ぐたえに築いた防御施設。
大半は戦国末から安土桃山時代を経て
江戸初期にいたる半世紀程の間に築かれたもの。
最盛期には大小合わせて三千にも及ぶ城郭が
乱立していた。
しかし、大阪夏の陣後の徳川幕府の一国一城令に
より、一挙に約170城に整理され
そのままほとんど変わらず、わずかに増加した状態で
明治維新を迎えた。
明治7~8年ごろに約3分の2の城郭が破却され、
さらに軍用施設として使用されたために
太平洋戦争で大きな被害をこうむった。」


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5層になっているお城を上っていく。

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「本丸御殿障壁画復元模写」
名古屋城では、本丸復元に向け、平成4年から
障壁画の模写を進めている。
障壁画のうち、壁貼り付けは壁からとりはずせなかった
ため、昭和20年の空襲で御殿とともに焼失
している。
しかし、幸いなことに名古屋城では、昭和初期に御殿内部を
調査・撮影しており、焼失以前の様子を
くわしく知ることができる。


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風俗図。本丸御殿の襖を復元模写したもの。

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つなひき!

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次の階へ。


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御用部屋。藩の政務などを行う部屋。

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当時の街並みを再現した階。

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この階は6分ごとに日が暮れる。

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石垣について

近代初期には、石垣積の技術が飛躍的に発展し、
石材の長辺を交互に向けて積み上げる積木積技法が
完成。この技術を利用して名古屋城の石垣は積まれている。

石垣は、助役を徳川家康から命じられた20名の大名達
によって工事が進められた。

慶長15年(1610)6月に根石が置かれ、9月には
大半の工事は終わっていたらしい。
12月にすべての石垣工事は完了していた
と伝えられている。

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当時の様子を再現したもの。

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最上階からの眺め。

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2013年03月30日

2013 春 名古屋 文化のみち散策4 三菱東京UFJ 貨幣資料館

UFJ貨幣資料館へ

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外観。

日本や世界各地の珍しい貨幣約1万点を展示。
日本有数のコレクション(パンフレットによる)。

東海道五十三次に代表される歌川広重の版画類も所蔵・展示
している。

入場無料。

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金のなる木。

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大判・小判が釣り下がっている。
自由に触ることができる。

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大判。

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小判。大判は持ち歩くには大きすぎるので
財産として家などで大切に保管されたそう。
小判は普段使いらしい。

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坩堝(るつぼ)。貨幣を鋳造する時に金属を
溶かすための耐熱性の粘土でできた容器。

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和同開珎と富本銭。
これまで通説となっていた708年の和同開珎
より富本銭というお金が日本最古の貨幣で
ある可能性が高まっている。
しかし、出土例が少なく、通貨としての価値や
流通範囲など課題も多く残されている。

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鋳放し銭(枝銭)。
貨幣を鋳造する過程でできる鋳型から取り外した
ばかりの状態を「鋳放し銭」という。
ここから個々の銭をたがねで切り落としやすりや
砥石で整形して仕上げた。

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江戸の両替屋。

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紐でつなげられたお金や秤、おもりなどがある。

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銀秤。

小判の歴史。

①慶長小判(初代 徳川家康の時代)
 家康は関ヶ原の戦いに勝利し、翌年の慶長6年(1601年)
 「金・銀貨」を統一。全国通用の貨幣制度をスタートさせた。
 慶長小判は、足利将軍家の金工師であった「後藤家」に
 請け負わせ「江戸・京都・駿河・佐渡」の金座で製造し
 元禄期まで約100年間、製造し流通した。

②元禄小判(5代将軍 徳川綱吉の時代)
③宝永小判(6代将軍 徳川家宣の時代)
 慶長小判は製造されてから約1世紀経過し、小判の摩耗・
 破損が悩みの種となり、一方では「金」の産出量も減少傾向
 で幕府は財政難となっていた。
 幕府は小判の「金」の品位を落としたり、重さを減らすことに
 よって得られる改鋳利益(出目)を狙いとして小判の改鋳を
 行い、約500万両の利益を得た。

④正徳小判(7代将軍 徳川家継の時代)
⑤享保小判(8代将軍 徳川吉宗の時代)
 幕府が大幅に品位を落とした元禄・宝永小判を製造したため
 貨幣への信頼が失われ、諸物価が上がり、インフレになった。
 正徳2年(1712)幕府の実力者、新井白石が中心となり、
 小判の品位を慶長小判(18グラム 金86%)に復帰した
 「正徳小判・享保小判」を製造。

⑥元文小判(8代将軍 吉宗の時代)
 元文元年(1736)徳川 吉宗は、経済停滞や米価下落の原因
 は通過量の不足にあることを知り、貨幣政策の大転換を行い
 金銀貨幣の品位を下げ通過量の増加を図る。
 この政策は改鋳による「出目」を狙ったものではなく、通貨量の
 拡大を目的としたもので、旧貨との引き換えは順調に行われ、
 元文の金銀貨幣はその後82年にわたり流通した。

⑦文政小判(11代将軍 家斉の時代)
 文化文政年間(1804~1829)は江戸を中心に町人文化が栄えた
 時代。滝沢馬琴、十返舎一九、喜多川歌麿等が活躍した。
 徳川家斉の放漫財政が影響し、幕府の財政は再び悪化。
 貨幣改鋳による利益(出目)を目的とした新貨が行われた。

⑧天保小判(12代将軍 家慶の時代)
 流通経済のめざましい発展により、農民が江戸へ流入し、
 農村の荒廃が進行。また天保8年(1837)には冷夏による
 気候異変により大飢饉が発生。
 幕府は財政破たんを避けるため、文政小判より重量を落とした
 天保小判を製造(文政小判と比較し、品位は上がったが重さが
 減り純金量は減少)。質の悪化が見破られないように、美しく
 見せる色上げの技術を用いた。

⑨安政小判(13代将軍 家定の時代)
⑩万延小判(14代将軍 家茂の時代)
 安政5年(1858)アメリカ、イギリスなどと「修好通商条約」を
 締結。その第5条の金銀との交換比率を外国に巧みに利用され、
 大量の金が海外に流出した。
 「金」不足となった日本はやむなく安政小判を3分の1の量にした
 万延小判の製造をした。
 この改鋳によって国内の経済は大混乱を起こした。これが明治維新
 の引き金となったとも言われる。(金銀交換比率:金1に対し日本は銀5、
 米国は銀15)

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紙幣の展示。色々な時代・国のものがある。

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ヤップ島の石貨
世界最大のお金として有名なヤップ島の石貨。
結婚や出産などの儀式に交換されたり贈られたり
していた。

この石はヤップ島では産出されず、500KM離れた
パラオ島から切り出してカヌーで運ばれてきた
石灰岩。

石貨の価値は大きさや重さで決まるのではなく
この石がヤップ島に運ばれて来るまでの
さまざまな苦労や失われた尊い命の代償など、
その石貨にまつわる伝説によって決まる。

大きなものは直径2mもあり、動かすことなく所有権
だけを移転した。そして村の一定の場所に置かれ
ここを石貨銀行と呼んでいる。
















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2013年03月29日

2013 春 名古屋 文化のみち周辺散策3 二葉邸

二葉邸。
大正時代に「日本の女優第一号」と言われた
川上 貞奴が居住していた和様折衷の建物を
当時の姿に移築復元。


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邸宅の入口。

現在の建物は平成17年に文化のみちの拠点施設
として現在の場所に移築された。

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館内にはステンドグラス。

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二階から大広間に続く階段。

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川上 貞奴の生涯について紹介してある。
女優第一号とのこと。
生まれは東京。芸者から川上音次郎と結婚後
一座とともにアメリカ巡業へ。
女優「貞奴」になる。
パリ万博に出演。一時帰国をした後、一年に渡り
ヨーロッパ各地を巡業。
日本でも川上一座として各地を巡業した。
引退後は、名古屋大曽根に会社を設立。
また、東京二子玉川に俳優養成所を設立。

岐阜各務原に寺を建立し、そこに眠る。


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福沢 桃介。大正期に電力王といわれる。
木曽川水系に多くの発電所を建設。
福沢諭吉の婿養子。多くの事業を手掛ける。

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当時、使っていた鞄。

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貞奴の使用した道具。

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着物。


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電気の配電盤。

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城山 三郎さんの書斎を再現したコーナー。
名古屋出身なんですよね?
廣田弘毅を描いた「落日燃ゆ」が有名。


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ほか、名古屋出身の歌人 岡井隆さんの
出版物が展示されていたり、

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名古屋や愛知県出身の小説家、歌人などの紹介
年表。

坪内逍遥、二葉亭四迷、江戸川乱歩の名前もあった。


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2013 春 名古屋 文化のみち散策2 旧春日鉄次郎邸

撞木館から歩いて旧春日鉄次郎邸へ。

入場料は無料。1階はフレンチレストランになっている。
陶磁器貿易商として財をなした春日鉄次郎が
武田 五一に依頼して建築した住宅。
(財)名古屋都市整備公社が借用し、レストラン等に
貸し出すと共に一般に公開している。
竣工年は大正13年(1924年)。(パンフレットより)

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入口。左に進むとレストラン。右に進むと春日邸入口。

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公開は、火・水・木・土・日曜日。

ボランティアの方に中を案内して頂いた。

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ダイニングの扉。3枚で窓が段々に取り付けられている。

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食器棚。こちらからも向こう側からも棚が引き出せる。

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当時としては、洋風のダイニング。

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2階からガラスの窓をあけると
木の格子。

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家紋。

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和室の床の間。琵琶棚がついている。
当時、ここに琵琶をおいて来客者に主人が
弾いて聞かせたとのこと。

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洋室。

この館には、ガス灯をつける管が壁にあった。
当時は電気ではなく、ガスの光が光源。
ほのかな明かりだったそう。









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2013年03月28日

2013 春 名古屋 文化のみち 周辺散策 1


寒さも緩んできた3月末。

名古屋市東部 文化のみち を散策した。

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古い街並みが少し残っている。

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最初に「撞木館(しゅもくかん)」
入口。大正の建物。
陶磁器商として活躍した井元為三郎が大正
末期から昭和初期に建てた邸宅。

応接室は現在カフェになっている。
庭や茶室もある。

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エントランス。
ライトやステンドグラスがいい。

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名古屋の輸出向け陶磁器産業について。
明治10年代より絵付け、輸出用の陶磁器を扱う
ノリタケ、サンフランシスコ、シンガポールなどに
事業を広げていた井元商店について
解説されてる。

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カップアンドソーサーのセット。
輸出していたため、現存するの製品は少ないそう。


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展示室のたたずまい。

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書斎。

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戦前の銀行通帳、井元商店で使用していたはんこ
英語のビジネス書などが展示してある。

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「文化のみち いま、むかし」

『名古屋城から徳川園まで東西3キロのエリアを
文化のみちといちづけ歴史遺産の宝庫として
整備してきた。

ほぼ中央にあたる「白髪、主税、撞木町並み
保存地区」は、江戸期、中級武士がくらした
区切りに、近代には起業家たちの邸宅などが
建てられ今もいくつかが残る。

名古屋は第二次大戦で65回の空襲を受け、市街地は
焦土と化した。名古屋城、熱田神宮など歴史的資産の
多くが失われたなか、焼け残ったこの地区は、
歴史をつなぐいみでも重要なエリアとなっている』

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廊下。古いたたずまい。

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台所。

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ゼネラルエレクトリック社の冷蔵庫。

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コンロなど、直火にのせてつかった
オーブン。

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「名古屋近代建築写真展」
 名古屋の古い建築物(現存するもの
しないもの含めて)の写真が展示されていた。

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庭からの眺め。

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庭にある茶室。「撫松庵」。

わずか2畳半の広さ。昭和8年(1933年)頃、
移築された。

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茶室の中。風情のあるたたずまい。

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文化のみち 撞木館でした。









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