2012年09月
2012年09月22日
2012 夏 マレーシア コタキナバルノ旅4
コタキナバルから香港へ。
香港には夜中12時過ぎに到着。
1泊予定で、町中のホテルに
到着するために
交通機関が動いているか
不安だった。
とりあえず終電前に間に合った。
翌朝。
目の前に所狭しとビルがたっているので
びっくり。

坂道。
中環という地区。
高層ビルと歴史的建造物。
さすがイギリスに租借されていたので
トラムやバスもダブルデッカー仕様。
メインストリートには、ブランドのお店がいっぱい。
この日は、学生がデモを行っていた。
「反対 資本主義」
「慶祝 香港特別行政区 成立15周年」
イベント会場の看板。
Ice Streetにあったアトリエ。
本の上で遊んでいるのは・・・

「わーい!」
(言論の自由!ってことかな・・・?)
高層ビル、欧米の旅行者、ブランド などなど
香港の中心部をふらりとした印象。
2012 夏 マレーシア コタキナバル3
コタキナバル3日目。
この日は、別のツアーを購入して
ラフティングに行こうかと思ったけれど、
前日到着が夜9時を過ぎていたので
止めた。
街でのんびり過ごす。
朝ごはん。鶏肉の入ったビーフン麺。
カウンターのお姉さん。スカーフを被っている。
とてもフレンドリーだった。
町の散策。床屋さん。漢字とマレー語の表記。
Jalan Gaya(ガヤストリート)理髪店。
眼鏡のお店。
8月31日はマレーシアの独立記念日。
パレードがあった。
街角に貼ってあった、歴史に関する写真と
資料。
「North Borneo gained self-government status from
the British on 31st August 1963. In 16th September
1963, Malaysia was formed with the
amalgamation of Malaya, North Borneo, Sarawak, and
Singapore.」
写真のよこになぜかマレーシアの地図と人民そして
味の素の広告・・・?
昔のコタキナバル。近代的なビルの手前に
水上集落がある。
1959年の写真。 ジェッセルトン ダイヤモンド
ジュビリー。英国領だったから、
多分女王即位何年の記念日の写真・・・?
1959年に アトキンソンクロックタワーの序幕式
が行われたそう。
現在のアトキンソンクロックタワー。
道路の向こう側にひっそりと建っている。

コタキナバルの海。
2012 夏 マレーシア コタキナバルの旅2
コタキナバル2日目 午後。
朝の町の散策を終えて、
午後からツアーへ。
川をボートで進みながら
テングザルの住む森をクルーズ、
食事の後、夜ホタルの鑑賞。
自分で、双眼鏡を持って行ったけれど、
5リンギット(2ドルくらい)で
双眼鏡を貸し出してくれる。

船着き場。
コーヒーかお茶とお菓子の軽食が
出る。お菓子砂糖がたっぷりで
本当に甘い!
13人くらいのグループで川をすすむ。
ライフジャケットを着用。
ガイドさんがテングザルを見つけると、
静かにボートを近づけていく。
双眼鏡でみると、葉っぱをむしゃむしゃ
食べている様子がみえる。
オスのテングザル、子づれの母ザルなどがいた。
やっぱり野生なので
うじゃうじゃ見ることは期待できない。
夕食を水上のレストランでとる。
その後再度船に乗って進む。
辺りは真っ暗。
ホタルの鑑賞。
家の近くにもホタルがでるけれど、
この川のホタル、すごい。
ホタルが集まっている木をみると、
クリスマスのイルミネーションの
ように木の下から上までホタルが
ぎっしり。
こんなにたくさんみたのは
初めてなのでその迫力に
感動した・・・。
残念ながら精度のよいカメラ
ではなかったので、
写真におさめることはできなか
った。
2012 夏 マレーシア コタキナバルの旅1
目的は、テングザル。

日本を出て香港へ。
今回の利用航空会社はキャセイ。

トランジットで空港内をうろうろ。
カート、日本語表記。

香港からは、マレーシア エアー。
久しぶりの利用。
マレーシア、キャビンアテンダントさん
も多国籍な感じがする。とてもフレンドリー
だった。

食事。パッケージに「ハラール」マーク。
イスラムの人たちにもOKという意味。
(豚肉関係はいっていないということ)

クラッカーのパッケージにもハラールマーク。

食事。

空の様子。

夕日が海に映っている。

コタキナバルに近づいてきた。
コタキナバル。マレーシア第2の都市。
でも中心部はこじんまりしている。
空港も近い。
空港タクシー、チケット購入して
ホテルへ。
タクシーの運転手さんと話す。
8月30日に独立記念イベントがあること、
タクシーの運転手さんはクリスチャンで
あることなど。
後でガイドブックを読むと、
コタキナバルには山岳でコメ作りなどに
従事する人など、キリスト教徒が
結構いるとのこと。

ホテル到着。
日も暮れてきた。ホテルの近くを散策。

ガイドブックに載っているパクテー
(骨肉茶:漢方の入ったお茶で煮込んだ肉)の店。
地元の人でにぎわっていた。

海鮮鍋も頼む。
翌日、朝、ホテルを出て、海岸付近を散策。

対岸に渡る船の船着き場。
対岸には水上集落などがある。

歩いていくと市場がある。対岸の集落から
多分買い物に来ている人たち。

地面に敷物を敷いて、フルーツや野菜などを
売っている。

食堂に入る。三角の葉っぱにつつまれている
のはごはん。

ビーフン麺を食べる。
魚介類の出汁が出ていておいしい。
2012年09月16日
2012年 夏 モンゴルの旅 ハルハ川(ノモンハン)事件について
ガイドブックを読んで
ノモンハン事件について
解説されていた。
あまり深く知らなかったので
備忘録として
書いておく。
ノモンハン事件
●事件の背景
1920年頃から、中国東北部(満州)に勢力を
拡大していた大日本帝国は、極東南下政策を
取るスターリン体制下のソ連と各地で小競り合い
を起こしていた。
帝政ロシアによる、シベリア鉄道の敷設に
見られるように、ロシアは一貫して中国東北部
や朝鮮半島に勢力を拡大させようとしていた。
これを阻んだのが大日本帝国で、その結果、
1904年に日露戦争が勃発し、からくも
日本軍は勝利を収めることになった。
●白兵戦重視の日本陸軍
その後も、日本陸軍は一貫してロシアを
仮想敵国と見なし、訓練、作戦研究を行っていたが、
その戦術は、歩兵の白兵戦によって敵を殲滅せんと
するものだった。
1930年代になると、帝政ロシアを継いだソ連が
革命の混乱からようやく立ち直り、軍事力を機械化、
重装備化によって増強しつつあった。
日露戦争においては、彼我の装備にさほど差がなく
日本軍の白兵戦術も功を奏し、また中国大陸における
中国軍との小競り合いにおいては、日本軍の圧倒的な
武力と中国政府軍の戦術後退という方針によって、
日本軍は破竹の進撃を続けていた。
このため、白兵戦による決定的勝利獲得という
戦術は何ら変更されず、日本陸軍の基本思想となって
いった。
一方、ソ連軍は機械化や重装備化を進めていたが、
スターリンによる反対派の粛清が激しくなり、
赤軍(ソ連軍)高級幹部も次々粛清され、
軍隊としての実力は低下していた。
●満州国の成立
こうしたなか、清朝最後の皇帝・溥儀を執政(後に
皇帝となる)にまつり上げ、日本の傀儡政権たる満州国を
中国東北部に作り上げた大日本帝国は、ソ連の実力を
試すためもあり、1935年頃から満州国とソ連との国境
付近で紛争を発生させた。
初期の紛争においては、日本軍の攻撃により、ソ連軍は
撤収したが、これが日本軍にソ連軍の実力を侮らせる
原因の一つになった。
その後、1938年の朝鮮(当時は日本の植民地であった)
とソ連との国境付近で起きた張鼓峰事件では、日本軍はソ連軍
の反撃によって1個連隊が壊滅する打撃を受けたにもかかわらず
敗北とは総括されなかった。
●ノモンハン事件の発生
こうしたなかで起きたのが、1939年5月の満州国とモンゴル
人民共和国の両国境守備隊の小競り合いであった。
満州国国境付近に大兵力をおいていた日本陸軍は
歩兵1個連隊と騎兵1個中隊を現地に派遣、ここに戦闘が
勃発した。
モンゴル・ソ連連合軍は頑強に抵抗し、日本軍は後退せざる
を得なかった。その後、関東軍参謀の作戦指揮によって、
モンゴルのタムスクへの空爆と第23師団および戦車隊を
投入した大規模な攻撃を開始した。
しかし、相変わらずの白兵戦重視で、投入した日本軍の
軽戦車はソ連軍の重火器によってブリキのおもちゃの
ように簡単に破壊された(この戦車の残骸は
スンベル村でかつて見ることができた)。
一方、ソ連側の戦車の装甲は厚く、日本軍の火器では
歯が立たなかったが、歩兵はソ連戦車の弱点で
あるガソリンエンジンを火炎ビンで攻撃し、
一時はソ連軍側をハルハ川を越えて退却させた。
●日本軍の壊滅
ソ連軍側は、後に元帥となるジェーコフ(ウランバートルに
記念碑がある)が指揮官となり、指揮系統を整え、戦車も
火災に強いディーゼルエンジンと交換させ、進撃してくる
日本軍に圧倒的な砲火で総反撃した。
この結果、日本軍23師団は壊滅、出動人員薬5万9000人
のうち戦死者7696人、戦傷者8647人、行方不明者1021人
(多くは捕虜になったため帰国しなかった)、戦病者2350人
という空前の被害を出し、敗北する。出動部隊の3分の1が
損害を受けた「事件」であった(モンゴルではハルハ川戦争
と呼んでいる)。
●第二次世界大戦の勃発と停戦協定
同年9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵入。
第二次世界大戦が勃発したこともあり、日本軍と
ソ連軍との間に9月15日に停戦協定が結ばれ、
一応の結末となった。
この結果、モンゴルの人々の間に、日本に対する
恐怖と憎しみ、ソ連に対する信頼と尊敬の念が生まれ、
その後のモンゴルの政治・外交に大きく
影響することとなった。
日本陸軍はこの敗戦をひた隠しにした。
そしてこの「事件」は、北方の仮想敵国ソ連との
戦争を避け、南方侵攻に目を転じさせる大きな
きっかけとなった。
●事件の総括はなされなかった
しかし、日本陸軍は精神主義をすてず、機械化の
遅れや重火器の不足などの反省はなされず、敗北
の責任を前線部隊指揮官になすり付け、生き残った
多くの第一線指揮官に自決を強要し、兵士の多くは
中国前線に送られた。
作戦を強行させた参謀はじめ司令部の責任は
問われず、こうした上層部の無責任さは、第二次世界
大戦の敗北にいたるまで続くことになる。
●この戦争のもたらしたもの
モンゴル側についていえば、ソ連に対する信頼が
深まり、日本に対する嫌悪感が定着するきっかけと
なった。
日本についていえば、日本陸軍は伝統的に、
北進論を唱えていたが、この事件の敗北により、
南進論に転じ、その後、対米戦争を主張することに
なり、真珠湾攻撃に繋がることになった。
「ノモンハン事件」歴史の1事実として
名前を暗記していたけれど、
第二次大戦やソ連、中国、モンゴルとの関連や
日本陸軍の体質についても分かったように
思う。