2011年12月
2011年12月12日
2011年12月04日
読書録 「水源をめざして」遠山 啓を読む4
数学者 遠山 啓さんの著書
昭和52年の出版
縦列から横列へ
「先だって、ある小さな企業の社長さんと
会食する機会があった。用談が済んで
雑談にうつるとその人はこう言いだした。
『ロッキード事件のことをあなたはどう思いますか。
正直のところ、私にはたいして悪いこととは
思えないのです。私たち商売人は、品物を買って
もらうときには、あいさつがわりに手土産をもって
いきます。5億円というといかにも多いようですが
何百億という取り引きなんだから、
そのくらいは適当だと思います。それも、外国の
金だから、日本にはビタ一文、損をかけてはいません』
これには私も驚いたが、黙っているのも妙だと
考えて、ごくひかえめに反論しておいた。
『自分の金で買うのなら、手土産をもらうのもいいでしょうが、
買う金は、もとはといえば、国民の税金からでたものでしょう。
そこがちがうとは思いませんか』
すると、社長さんは『なるほど、そういうみかたもありますな』
といってしばらく考え込んでいた。
ロッキード事件が発覚してから、新聞やテレビは毎日のように
それを報道し、国会は前例のない証人喚問を行ったりして
日本中がロッキード事件で明け暮れるといったような半年
だった。だがこの嵐は日本という森のこずえを動かし、
何枚かの葉っぱを落としたかもしれないが、木々の根本
まではゆるがさなかったような気がする。『逮捕されたのは
われわれとはちがう”大物”で、あのくらいの役得はあるのが
とうぜんだ』と、多くの日本人はなかばあきらめと羨望のまじり
あった感情でやりすごしているのではあるまいか。
そのことは、事件後行われた地方選挙の結果をみても
認めざるをえない。だから次の総選挙では逮捕者たちは
ゆうゆうと当選するだろうし、議席数に保革逆転といった
ような劇的な変化がおこるとは想像できない。
そうかというと、いかにも悲観的で、何をやってもだめだ
ということになりそうだが、私はそうは思わない。
これまでの半年間で何か前進したものがあるのかと
いわれれば、私は『ある』と答えたい。それは、この
事件が日本の支配機構を―もちろん、その一部だが―
暗夜のいなずまのように照らし出してくれたことである。
たとえば、賄賂も『政治献金』とか『餞別』とかいいかえると
大物は罪にならないこと、また、百万円以下は
みのがしてくれることがはじめてわかったし、とくに
意外だったのは、いくら賄賂をもらっても、三年間
隠し通せばシロになるということであった。
こんなことはロッキード事件がなければ、法律の素人
にはわからずじまいに終わったことだろう。
しかし何よりも痛感したのは、『財』『政』『官』という三本柱
でささえられている政府の力がいかに大きなものに
なっているか、ということであった。
また戦後、何をいってもよい、とう言論の自由はあるていど
まで実現されたことは認めよう。しかし、知る自由という
点では、まったく進歩していないということがわかった。
これほどの事件をアメリカで暴露されるまで、日本の言論
機関が一つとして報道しなかったということは驚きである。
つまり、戦後自由になったのは口だけで、耳と目は依然として
封印されたままであった、ということになる。いわゆる新聞の
政治部などというものが『地の塩』の辛味を失ってナマクラに
なっていた、ということである。
・・・・そう考えてくると、日本の支配権力は、『財』『政』『官』という
三本柱に言論機関の『言』をもう一本つけくわえて四本柱を
もっている、と考えた方が真相に近いようである。
・・・この事件の関係者にみられる共通の性格について
この人たちは、一流ではなく二流、もしくは1・5流から
一流にかけあがるために異常な競争心にかりたてられたように
思われる。
いま、日本人は一直線の道路を一列縦隊になって歩いている、
というより、歩かされている。道のはるか向こうには『財』『政』『官』
の三本柱にささえられた高い塔がそびえている。その塔をめざして
馬車馬のようにおしあいながら行進しているようだ。
おとなばかりか子どもたちまでこの隊列にまきこまれている。
学校も一流、二流・・・と一直線に序列つけられ、はるかかなたに
たっている塔のほかは目に入らない。
いまほど人間を測るものさしが一元化してしまった時代はないとも
考えられる。いちばん偉いのは総理大臣であり、大企業であり、
そこから距離によってすべての人間の価値が定まってくる、という
しくみになっている。
もし、ロッキード事件をきっかけにして
日本人の精神のありかたに反省をくわえるとしたら
この一列縦隊的な価値体験を問題にしないわけにいかない。
では、どう変えるか。革命家はいうだろう。180度の転回を
行うべきであると。そうすれば、確かに縦列の序列は
逆転して、まえとうしろとが入れかわり、大物と小物とが
入れかわる。だが、一列縦隊であることに変わりはないし、
なんとしてもまえにでたいという闘志を燃やす人は
あとをたたないだろう。
180度ではなく、180度の半分の90度だけ転回したら
どんなことになるだろうか、と。
そうすれば、縦隊は当然横隊になる。むかし軍事教練
のとき、一列縦隊で行進しているとき、各人がそのまま
90度回転して一列横隊に変わる練習をさせられたが、
それと同じことをやってみてはどうか。
運動場とちがって、各人の前には道はなく、荒野が
果てしなく広がっている。そのまますすんでいくと
すると、ひとりひとりは自力で目標を発見し、道を
つくってすすまねばならなくなる。
・・・そこにはおのれの設定した、自身の目標がたっている
だけだ。道は自力で切り開きながらすすまねば
ならない。だから、他人の作ったアスファルト
道路をドライブするようなわけにはいかない。
だから進行速度は当然遅くなる。
しかし、他人のかかとだけを見守りながら走る
ほかはない縦隊よりは、この横隊の方がおもしろくて
生きがいが感じられるようになるだろう。
おとなの社会を一列縦隊から一列横隊にきりかえる
ことはむずかしいだろう。しかし、比較的やさしいのは
子どもであろう。
考え方を縦隊から横隊に向けようと思ったら
そのきっかけはいたるところでみつかるはずで
ある。また、このような90度回転をやらない限り
ロッキード事件は何回でも起こるだろう。」
読書録「水源をめざして」遠山 啓を読む3
知ることの意味
~学歴社会について~
「私はいろいろのところで教育の話をさせられ
ますが、どんなふうに話をはじめても、
結局は、いまの学歴社会の話に
なってしまいます。
その問題にふれないと、話のしめくくりができない
のです。・・・
『学歴社会をしったところで、それを変える力が
ないかぎり、なんの役にもたたない』
もっと一般化していえば、何かを知っても
それだけでは、現実は少しも変わらない、
というわけです。
たとえば、台風です。台風がなぜ発生するか、
いつ襲来するか、とんな進路をとるかを知っても
その台風を消滅させることも、また、進路を
かえさせることもできはしません。
しかし、・・・・台風の襲来の日時や進路を知ること
は、ほんとうにむだなことでしょうか。
台風襲来の日時や進路をあらかじめ知ることが
できれば、航行中の船舶を避難させるなど、
さまざまな予防手段を講ずることができ、
被害を少なくすることができます。
いや、そればかりではありません。目に見える
物質的な利益ばかりでなく、目にみえない精神的な
利益もあります。
それは、知ることによって未知なものに対する
理由のない恐怖心から解放されるということ
です。人間は正体不明なものをおそれるという
本性をもっていますが、正体をしることによって
おそれはなくなります。
・・・知ることは人間をいわれない恐怖から解放する
力をもっていると考えてもいいでしょう。
それは、何も台風ばかりでなく、ここで問題に
している学歴社会についてもいえるでしょう。
『学歴社会』ということばには、『日本の社会は水ももらさぬ
学歴社会だ。だからそこからはじきだされたら、落伍者に
なるぞ』という恐怖感がまとわりついています。
学歴社会といってしまとわかりきった事実のようですが
さて、その正体は何か、と問いかえされると
あんがい、わかっていないような気がします。
・・・正体不明なもののもつおそろしさや不気味さを
もっているようです。
しかし、よく考えてみると、台風と学歴社会とは
おおいに異なった点をもっています。台風は
明らかに自然現象ですが、学歴社会というのは
そうではなくて、その名のとおり、人間が集まって
つくっている社会の一つのあり方なのです。
いわば社会現象なのです。
それは、出身学校の序列によって社会的な地位や
待遇の序列ができるようなしくみをもった社会
のことだ、といってよいでしょう。もっと具体的にいえば
一流といわれる学校の卒業生は、エリートとして
官庁や一流企業で出世が約束されている、ということです。
現代の日本社会がそうなっているという指摘は、
いちおう正しいといえます。
ただし、ここでわざわざ『いちおう』ということばを使った
のは、水ももらさぬほど完璧にそうなってはいない
からです。
・・・ラジオ・テレビ・新聞・雑誌などが、毎日のように
そういう見解を流すので、その正体を冷静にみきわめる
だけの精神的な余裕を失って、学歴社会が水も
もらさぬ完璧なものだと思い込まされてしまうのです。
しかし、学歴社会の正体を冷静にながめてみると、
それが絶対的なものではないし、将来は消滅する
可能性だってあることに気づくかもしれません。
・・・学歴社会は人間の心のなかの心理現象でも
あるような気がするのです。考えようによっては
学歴社会なんて実在しない幻影だとさえいえる
かもしれないのです。
人間のほんとうのねうちを測るうえで、
学校のテストの点数は無意味であるし
それにもとづく学歴の序列や社会的な序列は
ナンセンスだと考えている人にとっては
学歴社会は存在しないともいえます。
わかりきっていると思われている学歴社会を
いろいろの角度からながめてみると、
それはなかなか単純なものではない、
ということがわかってきたでしょう。
正体を知ってから、つぎに出てくるのは
それにどう対処するかという問題です。
無条件降伏・・・しかし、これはどう考えても
賢い対処のしかたではないようです。
では、完全に否定してしまうのか。
学歴を完全に否定して、子どもを学校に
入れないということも考えられます。
それは、徹底していて、勇気のある生き方です。
そのためには実に多くの困難に出会うことを
覚悟しなくてはならない。
無条件降伏か完全否定かという両極端のいきかた
しかないかというと、そんなことはないと思います。
学歴社会の正体を正しくみきわめたうえで
それとあるていど妥協していく、という生き方も
あります。
具体的には、子どもを学校に入れるが、学歴主義
の毒に犯されないような抵抗力をつけて
やることです。これは、完全否定のいきかたほど
カッコよくはありませんが、しかし、苦労の少ない
実行しやすい方法です。
子どもがテストの点数などに一喜一憂しないで、
ながもちのする知識や技術を学校から吸い取れる
ようにしてやることは十分できるでしょう。
学校と適当につきあうだけの賢さを身につけさせる
ことです。そして、、学校を出てからは、社会的な
地位ではなく、仕事を目的にする人間になるように
援助してやることです。」
読書録 「水源をめざして」遠山 啓を読む2
心の安全装置
「少し大きな機械にはたいてい安全装置が
ついている。
たとえば、電気器具についているヒューズ
などは、電気が異常な流れかたをしたとき、
その被害を一局部でくいとめて
器具全体に波及させないための安全装置
である。
また、昔の軍艦は、船倉が小さな部屋に
しきられていて、魚雷などで1つの部屋が
浸水しても、船全体が浸水しないように
なっていた。そうでなかったら、一発の
魚雷で、みな沈没してしまっただろう。
だから、船倉を小部屋にわけておくのも
一種の安全装置だといえる。
同じことが人間についてもいえそうな
気がする。人間はいつ、予想もしなかった
事件にであうかわからない。そのとき、
心も衝撃を受けるが、その衝撃が
人間全体に普及しないための安全
装置のようなものが必要になってくる。
近頃、子どもの自殺が、増加していて、
小学生の自殺さえまれでなくなってきた。
事件のあとでおとなたちのいうことは
いつもきまっている。
『あんなマジメな子が、どうしてそんなことを
したのかわからない』
わたしにいわせると、マジメだからこそ
自殺したのである。
受験に失敗したという衝撃を受けたとき、
その衝撃を一局部でくいとめて、心全体に
およぼさないための安全装置が
その子の心になかったのである。
マジメということは、ものを判断するものさしが
一本しかないということで、入学試験の合否が
人生のすべてだと思いこんでしまったので
ある。だから、安全装置のない機械のように
だったいちどの衝撃で機械がこわれてしまう
のである。」