2011年11月
2011年11月29日
読書録「悪夢のサイクル」内橋 克人を読む6
「マネー」と「お金」
「お金」は労働の対価。しかし金融商品は「マネー」。
実体経済を伴わない。
「グローバライゼーションの本質は、ITマネーが自らの
増殖の場を広げていくこと。
グローバリズムでしばしばいわれる『バリアフリーにする』
という言葉のバックにあるのが、ITマネーであり、
そのマネーによるお金のお狩場を広げていくのが
規制緩和。お金を吸い上げて自己増殖を続けていく
ために、障害なきお狩場をつくるというのがITマネーの
本質。」
「障害になるものというと、たとえば通貨危機に際して為替
取引を制限したマレーシアのマハティール首相のような人や
あるいはイスラム教のような宗教も、大変なバリア。
日本に対しても同じ。」
「国際会計基準の統一を推進し、各国の会計基準を減損会計
など英米スタンダードへ変更させるよう強制したり、商法の
改正で社外取締役制度などアメリカ型の企業統治ルールを
採用させたり、弁護士の増加やアメリカの弁護士の日本での
活動の自由、公正取引委員会の増員や権限の強化を
要求したり・・・・。
アメリカが会計・商法・司法などの法律体系から、さらに官庁
による規制に関してまで繰り返し強硬な対日要求を
行ってきたのは、つまりマネーにとっての障害をとりはらうことが
目的だった。」
「世界を駆け回るITマネー、それを象徴するのがヘッジファンド。」
「ヘッジファンドの定義ははっきりきまっていないが、
一般的にはジョージ・ソロスの『クォンタム・ファンド』やジュリアン・ロバートソンの
『タイガー・ファンド』のように私的つながりで裕福層から資金を集め、
為替の先物取引のようにレバッジ(梃子)をきかせた、
きわめてリスクの高い投機的な取引を行うファンドを指している。
金融庁のレポートによると、ヘッジファンドの実態は不明ながら
『2000年初に3240億ドルであったヘッジファンドの資産規模は
2004年には7950億ドルに、また、2005年には1兆ドルを超える
規模に成長したといわれている』とある。」
「資産1兆ドル。日本円に直すと100兆(当時)以上のお金が
デリバティブなど投機的な取引に関わって世界各国のつけいる
隙をねらっている。格差のあるところをついて、利益をつかみ
とろうとしている。」
「何かにつけ格差の存在するところが、マネーの増殖に都合がよい。」
「たとえば、実体経済と為替との間に格差があるところ。」
「1997年のアジア通貨危機がよい例。当時タイのバーツの為替レートは
ドルにリンクしていた。実体経済は弱いのにバーツだけは強いという
状況が生まれていた。」
「ITマネーはそういうところをつく。バーツのレートを守ろうとするタイの
通貨当局に対して、そのバーツを売り浴びせて落としていく。」
「先にタイ政府に対して現状の価格でバーツを空売りしておいて、
バーツの価値が落ちてきたときに市場で現物のバーツを
買い戻せば、その価格差で莫大に儲かる。」
「このときは『血まみれのバーツ』と言われて、非常に劇的な
闘いが展開された。重要なことは、タイが国家を挙げて防戦した
にもかかわらず、勝利を収めたのは国家ではなくて、マネーの
側だった。」
「イギリスのポンドでも同じような攻防があったし、メキシコや
アルゼンチン、ブラジルなどラテン・アメリカ諸国でも同じ
ことが起きている。いずれもマネーの側が勝った。
マネーが国家を屈服させる過程、それがアジアに入ってきた
のがアジア通貨危機の真実。」
「こうしたマネーの暴走をいかにしておさえこむか、
ということが世界的に大きな課題となっている。」
「一度は自由化が進んだアメリカでも・・・再規制の
動きが強くなっている。
イギリスのFSA(金融サービス機構)・・・ドイツでも
2004年に投資法を改正し、ヘッジファンドの
投資対象を制限するなどの規制をかけている。
日本でも2006年、金融商品取引法が成立、
投資ファンドの登録や、上場企業の株式
を大量取得した場合の報告の義務化、インサイダー
取引などへの罰則の強化が図られた。」
「村上ファンドは、2006年の村上代表の
逮捕の直前、シンガポールに本拠を移した。
特にヘッジファンドの場合、課税逃れのために
本国に本社を置かず、タックス・ヘブンと呼ばれる
金融取引に甘い、海外の特定国に名目の
拠点を置いている例が多く、その規制のためには
国際的な協力が必要。」
「トービン税とは、投機的な短期資金の移動を抑制
する目的で、1972年にアメリカのジェームズ・
トービン博士が提案した、新しい税制。
トービン博士は、ケネディ政権の経済諮問委員会に
参加し、後の1981年に金融市場の分析により
ノーベル賞を受賞したケインズ派の経済学者。」
「1971年8月のニクソン・ショックで金とドルの交換が
停止され、世界の通貨は変動相場制に移行していった。
その結果として、為替市場で投機が行われることを予想した
トービン博士は、それをおさえるために、通貨間の資金の
移動に一律に低率の税を課すというアイデアを発表した。」
「その後、博士の構想を発展させた『平時には一律に低率
の税を課すが、為替市場に投機的な変動が発生した場合
には、短期大量の資金移動に対して高率の税を課す』
という二段構えの税制が提唱された。」
2011年11月27日
読書録「悪夢のサイクル」内橋 克人を読む5
また、よく理解できなかったことを
追々調べていくためのメモです。
「日本のシカゴボーイズとして90年代最初
から経済政策に影響をあたえてきた竹中氏。
財界人についてみれば、90年代半ばに主役の
交代があった。
90年代半ばまで、持ち株会社の設立、大店法の撤廃
などさまざまな分野で『規制緩和』を主張し、
政府の審議会等で重要な地位をしめていたのが
ダイエー中内功氏。
97,8年ぐらいにダイエーの経営が傾いてくると、中内氏は
経団連副会長を辞め、財界活動から手をひく。
中内氏にかわって新たな『規制緩和』の旗手として登場したのが
オリックスの宮内義彦氏。
社長としては、当初の中心だったリース事業から
バブル期には不動産金融を拡大、さらにM&Aで
阪急ブレーブスを始めさまざまあ企業を買収して
社業を拡大している。90年代には生命保険会社
や債権回収会社を設立したり、信託銀行を買収
したりするなど、総合金融サービス業へ業態を
変え、売り上げを伸ばしてきた。
政治との関係では1991年に当時まだ熊本県知事
だった細川護熙氏などとともに海部内閣の第三次
行革審の下部組織「豊かなくらし部会」の委員となった
のが最初で93年には細川内閣下で設置された
行政改革委員会の下部組織「規制緩和小委員会」
の委員、そして98年、橋本内閣の下で発足した
規制緩和委員会では委員長になる。
以来、小渕、森、小泉と十余年、長期にわたって
政権の間近にあり、規制緩和を推進してきた。
宮内氏は、『規制緩和』によって新規に生まれた
権益で、自らのビジネスを拡大し、経済界における
存在感をましていった。
・・・・・
病院経営への株式会社の参入、混合診療の解禁
では、実現すれば医療保険を扱うオリックスに
ビジネスチャンスが生まれるといわれている、
一時期には、粉飾決算問題を起こしたアメリカの
エネルギー企業エンロンを日本に上陸させようと
もしていた。実際エンロンの不正が明るみに出る
直前には、日本で合弁会社までつくることになっていた。
電力などエネルギー関連事業の規制緩和を唱えながら
それによってもっとも利益を得るであろうアメリカ
資本と手を組んで、社業を拡大しようとしていた。」
「宮内氏は、エイチ・エス証券の澤田秀雄社長、
孫正義ソフトバンク社長、南部靖之パソナグループ
代表ら、金融、通信、人材派遣など各分野で規制緩和
を追い風に急成長してきた企業の経営者らと
親交があり、若手企業家のパトロン的存在と
いわれている。
インサイダー取引で逮捕された村上世彰氏代表の
村上ファンドなども、もともと宮内氏がバックに
ついてできたもの。・・・
村上ファンドもライブドア同様、投資事業組愛や特別目的会社
を利用した複雑な投資を行っていますが、そうした手法が
日本で可能となったのも、宮内氏らが金融規制緩和を
進めた結果。
オリックスでは、村上代表が逮捕される直前、村上ファンド
への出資と役員をひきあげたが、福井俊彦日銀総裁が
村上ファンドへの出資で利益をあげたと同様に、オリックスも
また村上ファンドによるニッポン放送株や阪神電鉄株の
売買で巨額の利益を得ている。」
日本での再規制の動き
「日本でも10年にわたった規制緩和路線に、
舵の切り替えがおこりつつある。
『規制緩和の見直し20法 今国会で成立』と題して
・・・90年以降に規制緩和した交通、住宅、流通
金融などの分野で再び規制を強化する『揺り戻し法』が
20本にのぼることが分かった。規制緩和による安全規制の
不備が鉄道事故やマンションの耐震偽装事件の遠因と
なったり、中心市街地の空洞化や金融商品での投資家被害
が問題になったりするケースが頻発したからだ。
『効率重視』『競争促進』を掲げ、ひたすら規制緩和を
進めてきた政府も、とりわけ安全にかかわる分野では路線の
修正をもとめられている」(朝日新聞 2006年6月19日)
・交通関連12法を改正する「運輸安全法」
→90年代以降の規制緩和の結果、列車の脱線事故や航空会社
の運航トラブル、長時間労働が原因のトラックやタクシーの交通事故などが
頻発した結果。
・98年に建築確認を民間検査機関に開放した結果2005年に耐震強度
偽装事件が発生した建築業界でm、建築基準法など関連4法が改正。
第三機関による再チェックや罰則強化がもりこまれた。
・90年代後半以降、日本版ビッグバンによって規制緩和を進めた
金融分野でも、金融商品取引法が成立。金融商品の販売ルールを
厳格化した他、ライブドア事件や村上ファンドの問題を踏まえて株式
公開買い付け(TOB)の規制や投資ファンドに対する規制が強化
され、彼らが利用した「法の抜け道」がふさがれた。
・「まちづくり三法の改正
80年代大規模小売チェーンの日本進出を狙うアメリカから
圧力がかかるようになった。92年には大店法が改正され、大規模
店舗の出店が自由化された。
98年に大店法は廃止され、「大店立地法」「都市計画法の改正」
「中心市街地活性化法」の、通称「まちづくり三法」が成立。
店舗面積1000平方メートル以上の大規模店舗の出店も
原則自由化すると同時に、許可の権限を地方自治体に委譲。
しかし、大手資本が他の自治体に逃げてしまうことを恐れ、
許可権が有名無実化していった。
スーパーはモータリゼーションの進行に合わせて土地の安い
郊外に広い駐車場を備えたショッピングセンターを建設する。
不動産ファンドと手を組んで、大規模な開発をするようになっている。
もともと市街化調整区域は固定資産にかかる税金が安い。
大手資本はそれを利用して市街化調整地区に1つの町を
つくってしまう。安いコストを狙って集中的に進出し、客を
都市の中心街から吸い上げていく。こうして人々は
地元商店街をパスして車で郊外のショッピングセンターに乗り付けて
買い物を済ませてしまうようになり、全国の地方都市で
街の中心地が地盤沈下して、『シャッター通り』と呼ばれる
ほどさびれていった。
・・・車を持たない高齢者にとっては、ひどく住みにくい世の中に
なってしまった。まちづくり三法の改正は、このような中心市街地
の空洞化対策として、一万平方メートル以上の大型店の出店を
市街地中心の商業地域などには認めるけれども、郊外には
認めないという規制を行った。
ところが、規制緩和論者は「これは新たな規制だ。規制緩和の
時代に逆行している。」といって反対している。
しかし、・・・これは地方住民の選択。
明治以来発展してきた駅前の町並み、あるいは中世以来
発展してきた城下町の商店街とそれに付随する文化を
ある程度の不便をのんでも守る、というのも一つの選択。
そうした地方の選択の自由を都市で・・・・特権階級ともいうべき
学者やマスコミの人たちが押さえ込んできたことの方が問題。」
読書録 「悪夢のサイクル」内橋 克人を読む4
地方財政について
「地方債といっても、国がマクロ的な視点から計画し
発行をしてきた。・・・
バブル崩壊以降、地方債の残高が急伸していったのは
国の意思であった。
これほどの地方債を発行して返還できないのでは
ないかという予想は働かなかったのか。
当然そうした危惧は働いていた。しかし
やらざるを得なかった。
80年代に行われた日米構造協議により、
日本はアメリカに内需拡大(つまりお金を使うこと)
を強く求められ、91年から2000年までに430兆円
の公共投資を行うことが対外公約になってしまった。
中央は、中曽根内閣以降の臨調路線で民営化や
歳出抑制による『増税なき財政再建』が公約と
なっていたから、このアメリカとの約束は
地方に押し付けざるをえなかった。」
「88年の竹下内閣のもとでの『ふるさと創生』政策。
90年から92年の『地域づくり推進事業』
93年から95年の『ふるさとづくり事業』等の公共事業
が地方債の発行を財源としてなされていった。」
「バブル崩壊以降、公共事業を押し付けられて
借金漬けになった零細自治体は・・・
借金を減らす計画を強制的につくらされることになる。
住民がくらしていくうえで必要なさまざまな公的支出も
削られていく。さらにこれに住民税の増税が追い打ちを
かける。・・・」
「これまで、89年のブッシュ・シニア政権と宇野宗佑
政権ではじまった日米構造協議については、
70年代後半からの半導体、自動車、スパコンといった
製造業の輸出をめぐる貿易摩擦に対応するものと
いう理解の仕方が一般的だった。
・・・・アメリカがさまざまなかたちで日本に資本の自由化
規制緩和を求めてきたのは、80年代にアメリカの政権
の経済理論の支柱が、新自由主義(ネオリベラリズム)
経済学=市場原理主義にかかわったということが
大きいと考える・・・・」
「金融の自由化・・・非居住者による資金の調達・運用
の両面での取引拡大を図るべき・・・・これはまさき
ネオリベラリズムによって誕生したマネーの投資先に
日本もなるべきである、という意思表示。
80年代には、金融技術の発達とコンピュータの発達
によって、通貨、株式、債券、債権、国債、商品先物
あらゆるものが投資の対象になった。
実際の貿易の決済に必要な金は8兆円であるにも
かかわらず、現在1日の為替の出来高は300兆円
ともいわれる。
これらは、金で金を買う、あるいは、過小評価されて
いる国やその企業をめがけて流入してくる金という
こと。そうした『投機』のための金を、(著者は)
労働の対価や商品を買うための『おカネ』と区別
する意味で『マネー』と呼ぶ。そのマネーが
自由に動ける市場をアメリカは欲した。」
「このようにして、規制が緩和され、公共事業によって
内需が拡大され、非居住者による投資が可能に
なった日本に世界中の金が集まってくるように
なった。バブルの発生。土地と株価が急上昇した。
こうしたバブルのさなかに日本は年50兆円の公共
事業計画を対外公約として約束してしまった。」
「90年1月、東証の株価は暴落。
バブルの崩壊は日本社会を滅茶苦茶にした。」
「日本のバブル崩壊は『マネー』が逃げて行った結果
にすぎない。」
「それからの16年は、再びマネーが戻ってくるための
環境整備の16年。より自由にマネーが動き回れるように
『規制』をどんどんはずしていった過程だった。
その間に進んだ外資の進出、ハゲタカファンドの進出、
日本企業の外資化は、『マネー』が再び帰ってきた
ことを意味する。」
読書録 「悪夢のサイクル」内橋 克人を読む3
読書後に、すぐに内容を忘れてしまう自分の
ための備忘録です。
「新自由主義政策が必然的に呼び込む
こうした景気循環を・・・ネオリベラリズムサイクル」と
命名しました(佐野誠教授)。
これは、市場が小さく国内資本の蓄積が十分でない
発展途上国が新自由主義路線を取った場合に
必ず陥る経済浮沈のサイクルですが、
ケインズが市場の構造的欠陥として
指摘したように、
好景気→消費過剰→インフレ→生産増強→供給過剰→デフレ→不況
一般的な意味での景気循環とはことなるもの。」
「つまり、自由化によって海外からの資金が集まり
バブルが起きる。このバブル経済がくせもので
企業だけでなく自治体も国も借金をしまくる。
経済が膨張しているから借金をしても、すぐに
返せると考え、財政規律がゆるむ。そして
バブルがはじける。
この時資本は一斉に海外に逃避し、国、自治体
銀行、企業は一挙に不良債権をかかえる。
そしてリストラをはじめる。このときに
様々な規制緩和などの『改革』がまたなされる。
そして国や自治体、その国の企業の価値が
安く評価されるときをねらって一気に
海外資金が流れ込む。この繰り返しが
果てもなく続くということ。
その過程で何が起こるのか。アルゼンチンで起こったのは
アルゼンチンの企業や国営事業が外資によって
支配されていった。そのなかで、貧富の差は拡大し
国土は疲弊し、人心は荒廃する。」
「1986年から始まったバブルと、国、自治体、企業を
あげての借金競争、そしてバブルの破たんによる
自治体、企業、金融機関の不良債権の山、
それを整理すると称しての『規制緩和』『自由化』
という『改革』。そのすえの弱小企業の淘汰、雇用の
喪失、貧富の差の拡大、外資の進出・・・
日本はネオリベラリズム・サイクルがちょうど
一巡しようとしているところ。」
「ライブドア事件の直後、2005年くらいから起こり始めた
東京の地価と株価の上昇は、いったんこわされた日本が
割安だとして、再び資金が流入してきたことを意味する。」
2011年11月23日
読書録 「悪夢のサイクル」内橋克人を読む3
チリとアルゼンチンの例を紹介している。
「フリードマンは・・・チリのピノチェト政権の
自由主義的政策の思想的なバックボーンで
あったとされる。」
「ピノチェトは1973年、選挙によって選ばれた
アジェンデ政権を軍事力で転覆させて
権力を握ったチリの独裁者。」
「当時のニクソン政権はこの軍事独裁政権の
誕生を歓迎した。というより社会主義者の
アジェンデが大統領になることを阻止するために
CIAはふたつの作戦を実行した。」
「チリの軍政下におうてピノチェトは
『シカゴボーイズ』と称されるフリードマンの弟子筋の
学者、経済の専門家を経済閣僚として登用した。」
「チリに限らずアルゼンチンなどでもシカゴの自由主義
経済学を学んだシカゴ・ボーイズが官僚中枢部、
行政機構の中枢部に入り込んでいった。」
「そしてこれらのくにでは新自由主義を政策の柱と
するようになった。」
「ピノチェトは75年の不況の後に、シカゴ帰りの
秀才たちに経済政策を頼り、原理主義的とも
思える自由主義政策を採用した。国民の大半をしめる
勤労者層を貧困におとしいれ、一部の裕福層と外国
資本が莫大な富を得ることを助けた。」
「82年のメキシコ累積債務危機に端を発し、ラテン・アメリカ
の経済危機を境に、政策の修正をよぎなくされた。」
「ピノチェト軍政は89年に行われた大統領選挙で
中道・左派連合が勝利したことで終わりを告げる。
コンセルタシオンとよばれた新政権では、軍政期における
極端な自由放任政策と資本家有利な制度を見直す、
社会的政策によって、貧困層比率は半減、所得格差
が改善された。」
「アルゼンチンではチリのピノチェト政権発足から3年後
の1976年、クーデターによってビデラ軍事政権が成立。
チリと同様、新自由主義的な改革が行われた。」
「金融規制緩和などの自由化政策は海外資本の
流入を呼び、国内市場は活況を帯び、当初、功を
そうしたかに見えた。しかし、1980年には、財政と貿易の赤字を
嫌ってそれまで流入した外国資本が大量に流出し
為替は暴落、通貨は価値を失って物価は高騰し、外貨
準備不足から対外債務危機に襲われ、一転して
大不況に陥る。」
「経済危機から国民の目を逸らそうとして行ったイギリス
とのフォークランド紛争にも敗北。軍事政権は崩壊。
紛争後は、それまでの経済混乱に加えて戦費調達の
ために大量の国債の中央銀行引き受けを行ったため、
通貨供給過剰により、アルゼンチンは80年代後半に
年率5000%にも及ぶハイパーインフレに見舞われる。」
「80年代の国内産業保護政策を一転させ、
91年に国内通貨ペソを米ドルに対して固定する制度
を導入、通貨の安定を図った上で、70年代に続く
新自由主義改革を行った。チリは新自由主義によって
市場の振幅が大きくなると、市場を制御する道を選択した。
アルゼンチンは逆に、さらなる自由化政策をもって解決
しようとした。」
「さらなる記入自由化や公営企業の民営化、雇用制度をより
柔軟にするための労働改革など、徹底した市場化改革が
行われた。それまで逃げていた外国資本が再びアルゼンチン
国内に流入するようになった。資金の流入により
景気は好転、通貨の対ドル固定によってインフレは
沈静化し90年代半ばまでの数年間、アルゼンチンは
高い成長を実現した。」
「ところが97年にアジア通貨危機が南米にも波及。隣国
ブラジルのレアル危機などを通じて、ドルに固定された
ペソは周辺国の通貨に対して割高となってしまい、
98年以降は輸出が低迷、不況に陥った。」
「さらに貿易集の悪化から90年代前半に同国に
流入していた海外資本が一斉に引き上げ始め
80年の債務危機と全く同じパターンで、ドル流出に
よる外貨準備不足と対外債務返済不能危機に陥った。」
「2001年には深刻な金融危機が国内にも影響を
及ぼし2002年には両替や預金引き下ろしなど
すべての国内銀行業務が、中央銀行の通達によって
停止され、アルゼンチン経済は大混乱にまきこまれた。」
「アルゼンチンの国民は、預金を引き出すこともできず、
失業者は街にあふれた。」
「新自由主義政策による資本移動の自由化と金融規制の緩和は
海外からの資本流入による一時的な活況を生む。
しかし、実体経済の強さを伴なわないバブル的好況は
多くの場合、経済の実態以上の通貨価値の上昇につながる。
そこをねらってヘッジファンドなどの投機的資金が集まり、
その国の通貨の「空売り」等を仕掛けて通貨の暴落を演出し
その結果、それまで流入してきた大量の資金が一気に
国外に逃避、バブルは崩壊し、実体経済を道連れにして国家
経済を破綻させてしまう。」
「アルゼンチンでおこったのは、アルゼンチンの企業や国営事業が
外資によって支配されていった。その家庭の中で貧富の差は拡大し
国土は疲弊し、人心は荒廃する。」
「1986年から始まったバブルと、国、自治体、企業をあげての
謝金競争、そしてバブルの破綻による自治体、企業、金融機関の
不良債権の山、それを整理すると称しての『規制緩和』『自由化』
という『改革』。そのすえの弱小企業の淘汰、雇用の喪失、
貧富の格差の拡大、外資の進出・・・。
日本はネオリベラリズム サイクルがちょうど一巡しようとしている
ところ。
ライブドア事件の直前、2005年ぐらいから起こり始めた
東京の地価と株価の上昇は、いったんこわされた
日本が割安だとして、再び資金が流入してきたことを意味していた。」
「80年代、チリやアルゼンチンに続いてほかのラテンアメリカ諸国でも、アメリカの
ビジネススクールに学び、各国で市場原理主義的改革が行われている。
しかし、結局は、『従属』『低開発の発展』の問題を解決できず、
資本と貿易の自由化によってアメリカを本拠とする多国籍企業が
それぞれの国の市場を支配し、利潤を搾取して国外に持ち去ると言う
構造が確立されてしまった。新自由主義を採用した国では
貧富の差が拡大し、国富が国外に流出し続ける社会になってしまった。」